兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。ローマ12:10
何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。ピリピ2:3
長らく、他の人を「自分よりもすぐれた者」と思うことは、実に困難なことに感じていました。
なぜなら、人は他の人の欠点ばかり気になってしまうからです。
兄弟に向かって、『あなたの目のちりを取らせてください』などとどうして言うのですか。見なさい、自分の目には梁があるではありませんか。マタイ7:4
私たちは自分の目の梁を見ず、人の目のちりばかり見てしまう者です。
「謙遜になろうとする」ことは、実に難しいと感じました。
しかし、少し、その悪癖がどこから生じてしまうのか、見えた気がしました。
「私たちは人として互いに対等である」という考え方があります。兄弟姉妹も役割は異なっていても、「互いに対等な立場である」と言えるかも知れません。
けれど、この「対等な立場」という発想こそ巧妙な曲者であって、人が「対等なんだから」と口にする時、その心の中は既に「上から目線」になっているのではないでしょうか。
「対等なんだから、これくらいのことは言ってもいいんだ」「対等だから、言うべきことは、きっちり言わせてもらう」
そんな風に、「対等」という概念は使われているのではないかと気付きました。
その意味で、ここでは結果的に対等ではなくなっているのです。
だから、神様は 「他の人を自分よりもすぐれた者と思いなさい」と教えておられるのだと気付きました。
たぶん、他の人に対する敬意を持つ時、結果として、真の対等な関係を築いていくことができるのでしょう。
どちらが上でも下でもない、真に自由な幸いな関係とは、互いに他の人に対する敬意を払い合っている時に、初めて成立するような気がします。
私たちは他の人の欠点にどうしても目が行きやすい愚か者ですが、欠点は裏返せば長所でもあります。
また、私たちは他の人のすべてを知り尽くすことはできません。他の人には私の知らない優れたところがまだまだ沢山あるかも知れません。
自分の愚かさを更によく知ることも大切です。
その時、「他の人を自分よりもすぐれた者と思う」ことは、とても自然なことに思えてきます。
私のような愚か者を忍耐して受け入れてくださっている他の人に対する感謝と敬意をいつも忘れないで歩んで行きたいと思います。